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(1998/1/19〜)

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その後の介護体験や、家族の原稿を合わせてページを作りました。
よろしければ、こちらもどうぞご覧下さい。98/9/15


2000年2月1日、私たちの「ジーパパ」岩切 健は、天に召されました。68歳でした。
アルツハイマー病と宣告されてから13年。
長い長い闘病生活でしたが、最後は本当に静かに息を引き取っていきました。
これまで私たちのことを支え、励まし、祈って下さったたくさんの方々に、心から感謝いたします。
ありがとうございました。


「呆け老人をかかえる家族の会」のホームページへ 

これは実際の介護を通して書かれた体験記です。
(社)「呆け老人をかかえる家族の会」の機関誌「老人をかかえて」
182号('95.9.25)〜189号('96.4.25)に掲載された文章を元に編集しました。
  

アルツハイマー病の夫と
岩切 裕子

<<目 次>>
兆候が見え始めた頃
「若年性老人性痴呆症」と言われて
日常生活に支障をきたす頃
アルツハイマー病と宣告されて
新たな治療法と生活設計と
デイサービスを利用しながら 
日々の介護に工夫とまごころを
徘徊はじまる  
悔いの残らぬ旅行をと
公的環境の整備を早く
自分で小さな集いを持つ
今は心にゆとりを持てて
* * * * * * 

 過ぐる10年間、私達におそいかかったとまどいの日々を記します。
 夫はキリスト教会の牧師と付属幼稚園の園長をしておりました。そして音楽が好きで、オルガンやピアノを弾いたり、コーラスの指導をする時などが一番楽しい息抜きの時のようでした。もう一つの楽しみは車を運転することでした。「車はだれにも邪魔されない密室、僕に絶対服従するのは車だけだ」などといっておりました。結婚して30年間休暇をとる事も無く働き続け、「あと10年頑張って年金がもらえるようになったら、第一線を退き、ひがな一日大好きなオルガンを弾き、読みたかった本を読んだり、キャンピングカーを買って日本国中時間を気にせずのんびり旅を楽しんだりして暮らしたいね」等と、つつましい夢を語る事がしばしばありました。
 そんな夫は20年あまり十二指腸潰瘍に悩まされ、医師からは「職業病ですね。牧師をやめたらすぐ治りますよ。けどもう手術をしなければ私は責任を持ちませんよ」といわれる状態の中で、痛みと闘い乍ら薬をのみ続け仕事をしておりました。後日この薬の中に入っているアルミがアルツハイマーを引き起こすという学説があると九大病院の先生に聞いた時は、愕然としましたがもう後のまつりでした。

 ○ 兆候が見え始めた頃
 1984年頃しきりに頭痛を訴え始めました。病院にいく時間も中々とれず、鎮痛剤も種類を替えれば少々のみ続けてもよいと聞き、市販の薬を4〜5ヶ月位のんだと思いますが一向に治らないので心配になり、やっと病院に引っ張っていきました。当時川崎市にいまして、聖マリアンナ病院の長谷川和夫先生に診て頂きました。夫は頭痛と最近物忘れが多くなったと話していました。病名は何もおっしゃいませんでしたが、私共も頭痛が治ればよいくらいの気持ちでしたから別に聞こうともしませんでした。しかし頭痛は中々おさまりません。
 東京に脈診で病気を診断し治療して下さるところがあり、そこにも行きました。「こんな状態でよく生きていますね」開口一番に言われ、一瞬眼前が暗くなりました。健康保険が使えないので治療費も高額ですが、たとえ少々の蓄えがなくなっても夫が元気になりさえすればと思い、治療を受ける事にしました。
 この時にいた教会はかなり規模も大きく、牧師と園長の兼任は、この状態の夫にとってあまりにも苛酷な状態でした。体力に見合った規模の小さい教会にかわりたいと考え始めた頃、大分市の教会から招聘を受けました。長谷川先生に相談しましたら、「長崎生まれの方ですから九州はよいでしょう。病名は『軽欝症』としておきましょう」と大分医大への紹介状を書いて下さいました。大分に行く前に、「福島に指圧で奇跡的に病気を治す人がいるからぜひ行ってごらん」と友人に勧められ、入院施設がないので1ヶ月旅館に泊まって通院しました。ここもまったく効果はありませんでした。
 大分教会には半年休養して赴任する事にして頂き、結婚して始めて、行くチャンスのなかった日本海側を車でブラブラ、時間に追われない行き当たりばったりの旅を楽しんで九州へ向かいました。それまではどんなに見知らぬ土地でも地図を見ながら何処にでも行っていたのに、「僕は聞いてもすぐ忘れるから道を聞いてきて」と度々言いますが、私はさして気にもとめませんでした。以前から自己紹介をする時「僕は物忘れの名人」などといったり、ある時は待ち合わせをしていた娘を車にのせてくるのを忘れて家に帰ってしまった事もある位でしたから……。川崎の教会でも辞任する少し前、2、3度依頼されていた事を忘れ気にやんでいましたが、その都度私は「こんなに忙しいんですもの」、取り返しのつかない失敗ではなかったし「気にしない、気にしない」と慰めていましたから。

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 ○「若年性老人性痴呆症」と言われて
 一週間位かけて福岡にいる娘のところへ着き、生まれたばかりの初孫と遊ぶのを最高の休養として、4ヶ月後大分の教会へ赴任しました。
 紹介された大分医大の先生は、夫を少し観察しておっしゃるには、「この病気は生涯治りません。今からする治療は大変きついですがついてくるなら診ましょう。もしやさしくしてもらう方がよいなら何処かよそへ行って下さい」と、私は嫌な気がしましたが本人が「やります」と言って通院を始めました。若い担当の先生が決まり、きちんと通院しましたが大した変化もなく、本人は相変わらず頭痛と物忘れがひどい事を盛んに訴えていました。この病気はどういうものなのか聞きました。「若年性老人性痴呆症です。これが80、90才なら普通ですが少し脳の萎縮が早過ぎますね」と言われましたが、この若年性老人性の性と言う字に、私はそのものズバリではなく、人より物忘れが多い位だと理解してしまいました。
 教会の印刷物を作るのに、半年使わなかった和文タイプでの活字の配列を忘れてしまい、とても間に合わないのでワープロを買う事にしました。このようなものを買う時は資料を集め研究して喜んで買ってきていたのに、お店に行っても私の横に黙って立っているだけ。仕方がないのでド素人の私がトンチンカンな質問をしながら手頃なものを買い、テキストを見ながら必死でワープロを打ちました。

 ○ 日常生活に支障をきたす頃
 ある日昼食の用意をしようと思い、夫に「今何時?」と聞いた時「6時前5分」と答えました。「何言ってんの、今からお昼にしようと思ってんのよ」と笑いとばし、そのときの夫の表情など見る事もしませんでした。それから数日して、お茶の時間にしようと思い「何時?」と聞いた時、2時半を「6時10分」と答えたのです。私はハッとしました。この頃からおかしいなと思う事が起こり始めました。まず数字、数が分からなくなってきたのです。買い物を頼んだ時メモ通り買ってくるのですが、おつりをどうしたか全く覚えていません。また、市内の道を中々覚えず、間違ったり迷ったり、こんなことは今まで無かったことです。
 毎週の礼拝の中でも、自分でいろいろメモしているのに、そのメモを見る事を忘れる。私が一番後ろから合図を送っても首をかしげて分かってくれない。そんな夫に私はイライラしてきました。音楽に堪能な牧師がきたからと、新しく讃美歌練習の時間を設けられ、自分でピアノを弾きながら指導するのですが、パート練習になるとどこを弾いているのか分からなくなる。そんな時慌てる風もなく「僕はこの頃頭がバカになって、自分が何をしているのか分からないのですよ」と言います。皆さんは冗談と思ってワーッと笑われます。私は顔は笑っていても胸がズキズキ痛みました。このような時、夫は不安を通りこしていつもと違う行動の変化に気づき、必死で恐怖に耐えていたのではなかったかと、最近心の平静を取り戻し当時の事を色々と思い返す時、そのような夫を思いやるどころか、イライラしていた自分の愚かさが悔やまれてなりません。
 この頃でもうまくインプットされると、新しい事でもできていきます。一旦インプットし損なうと何回やっても駄目。「あなたの頭の中のコンピューターはどうなってるの?」と話し合えるくらい、まだ余裕はありました。病気なのにその病状をきちんと分かっていなかった私、医師から病気の説明は一度もなく、私は人より少し物忘れが多いくらいの理解でしたから、夫を病人とは思わず、いつもと違う夫に今までになく気を遣い、人前では何とか取り繕っていましたが、その様な生活に段々疲れてきました。
 夫の仕事の現場にいつも一緒にいたから失敗もカバーする事ができていましたが、カバーし切れなくなる現状は苦しくなりました。
 この30年間、夫婦喧嘩らしい事をしたことのなかった私達でしたが、家に帰っても会話が無くなり、一度私がバッグを思いっきり床に投げつけて大声で泣きました。こんなに感情を剥き出しにした事など初めてでした。
 「僕達、もう駄目になるの?」と心細そうに言わせるほど険悪な雰囲気になった事もありました。

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 ○ アルツハイマー病と宣告されて
 赴任して間もなく、教会の中で問題が起こり、その後体の調子も悪くなったので、教会から「しばらくゆっくりすれば、また元気になられるから、4ヶ月くらい大分を離れて休養して下さい」と言われ、断り切れずに従いました。赴任して1年半、夫はまだできるといいますが、これ以上続けているとおかしな事がたくさん出て、夫の人格に傷がつくのを恐れた私は、夫を説き伏せて辞任を申し出ました。
 役員さんに「一つの病院で決めずに他でも見て貰って下さい」と紹介された病院に行きました。そこでも「よい先生を紹介しますから行って下さい」と言われたのが長谷川和夫先生でした。私の妹も東京都立の精神科の先生を紹介してくれたので、そこにも行きました。
 聖マリアンナ病院で最新式の機械の検査を受け、長谷川先生から「ご主人は、残念ながらアルツハイマー病です」と宣告された時、夫は55才でした。
 この頃、京都病院の中村先生が、老人痴呆症の研究にモルモットでよい成果をあげておられるTVを見ました。実験台でもよいから見て頂きたく、京都病院へ行きました。幸にも中村先生の患者になる事ができ、2ヶ月間、厚生省で認められている薬を全部試してみて頂きましたが、まったく効果はありませんでした。退院の時、先生から「現在この病気の研究は力を入れてやっているので、間もなくよい薬ができます。それまで頑張って下さい」と言われ、その日を一日千秋の思いで待ち続けました。
 退院後、正式に教会を辞任させてもらいましたが、収入が途絶えたところから住む家を探し、病む夫を看ていかねばならない事は、大きな不安となって迫ってまいりました。とにかく家族の近くに住もうと思いました。夫に相談しても何の答えもなく、一人で考え行動しなければなりません。私のどこにこんな強さがあったのかと驚くほど、今振り返っても信じられないような事をやってきました。
 京都病院での検査結果を克明に書いたものと紹介状を頂いて、九大病院に参りましたがその教授には会ってもらえず、外来で通院するだけでした。行くたびに先生が変わり、こんなことでよい治療ができるのだろうかと、疑問を感じ始めました。
 「僕はこれからどうなっていくのだろう。怖い……」と一言ポツンと言ったり、部屋の片隅に座りこんでスーッと涙を流している姿を見て、私には何も言いませんが、夫もどんなにか不安と恐怖を感じている事を察していました。一度だけ「アルツハイマーってどんな病気かなー」と突然言われて、とても病気の説明などできず、「大丈夫よ。今まで忙しすぎたから、これからは二人でのんびり過ごしましょう」と答えにもならない言葉を明るく言うのが精一杯でした。
 トイレやお風呂で一人になった時しか泣く事もできないでいる私に、ある日、九大病院の診察室に入った途端、若い医師が「どうですか、呆けの症状は?」と、いとも気軽に言われたのです。私自身も使っていたと思いますが、「呆け」という言葉を何と簡単に日常生活の中で使っている事でしょう。「呆け」と言う言葉が聞こえるたびに、夫の耳に詮をしたいような、そんな簡単に「呆けた、呆けた」など言って欲しくない!こんな言葉はこの世から無くなってしまえばよいのに、と心の中で叫んでいましたから、専門の医師が、まだ充分に理解力のある患者を前にして、無神経に平然と言われたこの一言はショックでした。もうこんなところで看てもらいたくない、薬にも不信感を抱き始めていたので、九大病院へ通う事を止めました。

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 ○ 新たな治療法と生活設計と
 この頃、新聞に漢方薬でアルツハイマーによい成果があったとの記事を読み、その治療を受けたいと願っていましたところ、原敬二郎先生と巡り会う事ができました。とにかく特効薬はないけれど、進行を遅らせる事を重点に治療を受ける事になりました。
 生活の方も、夫を家に置いて私が働く事もできません。幸い保母の免状を持っておりましたので、0歳児を数人お預かりしてみようと思い、娘も仕事を持っていましたので、手始めに2歳半と2ヶ月の孫を預かりました。3〜4ヶ月たった頃、体力的によそのお子様を預かるなど、とてもできない事が分かりました。新聞配達ならジョギングを兼ねて二人でやれば、一人前の仕事くらいできるかなとも考えましたが、私が夜眠れなくなり、早起きどころではなくなりました。この頃から、更年期障害に心労と不眠が重なり、たびたびめまいを起こして倒れ、その都度母や姉たちが助けに来てくれる状態になってしまいました。
 始めの2〜3年は、孫に本を読んでやったり、童謡を歌ってやったり、赤ん坊を抱っこして寝かせたり、私を助けてくれる普通の生活ができていました。
 だんだん病気が進につれて、私の不安は深まり、考えた事も想像した事もないのに、病気がひどくなった恐ろしい状態の夢を見、目がさめてホッとするような事がたびたびありました。
 4年目くらいから、段々無口になり、一日中椅子にじっと座ってばかり、夫の世界はその椅子だけになってしまったかのようでした。せめて座り心地の良い椅子をと、家具屋さんで一つ一つ座ってみて、一番座り心地の良い椅子を見つけ、15万円しましたが買いました。よくこんな思い切った事をしたものだと今でも驚きます。けれどこの椅子も一年くらいしか使いませんでした。次は、目が覚めてから夜床につくまで、食事、お茶の時間以外は、一日中家の中を歩き続けるのです。これはごく最近まで、4年間くらい続きました。
 だんだん日本語が通じなくなったかのように、言うことを聞いてくれず、一つ一つに事件にぶつかるたびに、私のイライラも高じてきました。今置いたものが、あっという間になくなる、引き出しなどを開けて物を持ち出す、洋服のボタンをちぎり取る等々……。孫が鏡台の引き出しをかき回したりいたずらをしても、その姿までが可愛らしく、微笑んでしまいますが、夫が引き出しを開けていると「またやってる!」と腹が立ちます。そのうち暴力も出始めました。
 苦労した事の一つが入浴でした。大好きなお風呂なのに、何遍言っても洋服は脱がずに、ただ歩き回っているので、「洋服を脱いでお風呂に入りましょうね」と手を添えると、力を入れて脱がせません。何とか脱がそうと、私も力が入っていきますと、いきなり投げ飛ばされるのです。歯が折れたり、首が回らなくなったり、腰を打ちつけられてあまりの痛さに涙を流すと、普段はほとんど口をきかないのに、信じられないような冷ややかな言葉を言って笑っているのです。普段の行動はとても緩慢なのに、こんな時はよける暇もないほど素早く、げんこつで殴られ体のあちこちに大きな黒いあざができ、耐え難い数ヶ月をすごした事もありました。
 一事が万事、何事もスムーズにいかなくなると、私の目には意地悪をしているように見えます。「病気のせいだ」と思いながらも、そんな夫を心から憎いと思い始めた自分に驚き、本当に悲しく、人生の終盤になってこのような思いをする事など、信じられない現実でした。
 道を歩いていても、前から来る車が居眠り運転ではねられ、ふたり一緒に死ねたらいいなとか、何とか不自然でなく死ねないかなとか、死ぬ事をいつも考えていました。

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 ○ デイサービスを利用しながら
 新聞に「痴呆老人をかかえる家族の会 全国大会」が福岡で開催されるという、小さな記事が目にとまりました。5年前の5月19日、この日は大雨、しかも私たちの33回目の結婚記念日でした。夫を友人に見てもらい、雨の中、会場を探して歩きながら涙が止まりませんでした。
 会場で「家族の会入会受付」のコーナーが真っ先に目に入り、迷わず入会しました。毎月送っていただく「たんぽぽ」や「老人をかかえて」の中にある介護者の手記が一番の慰めとなり、また様々な事を学ぶ教科書でもありました。
 数ヶ月して家族の会から「ご主人の様子はいかがですか」と電話をいただき、苦しさを一気に話しました。そしてデイサービスというものがある事を教えていただき、すぐに手続きを取りました。60才になっておりませんでしたが、幸いにも通院を許可され、週2日ではありましたが、数時間安心してホッとする事ができ、人心地をとり戻した思いでした。

 ○ 日々の介護に工夫とまごころを
 何とかよい介護をしたくて、話しを聞きに行ったり、いろいろな本も読みましたが、頭で分かっていても現実にはうまくいきません。とにかく怒るまい、笑顔で!と心の中で言い続けるのですが、言葉はやさしくても顔からは笑顔は消えているのです。孫を見る時はやさしい笑顔が自然に出て、夫を見る時は引きつった顔になり、まるで二重人格のようでした。
 いろいろな事ができなくなっていく中で、音楽を鑑賞する能力はかなり確かなもので、最も夫らしさを見せる時でした。TVを見ていても、夫はストーリーよりBGMを聞いているらしく、時々「あーこれは讃美歌にある曲だ」とか、「何々の曲だ」とか、CMで流れるクラシックの一部を聞いて「あー名曲はいいなー」などと敏感に反応していました。現役時代は忙しくて音楽会にもほとんど行けませんでしたが、経済的には厳しくなったのに、夫の感動する心を持続させたくて、2ヶ月に一度くらい音楽会にも行きました。まるで昔に戻ったように、感動し喜びを表現するので、この感覚は失わせたくないと思い、家でもレコードやCDをよく聴かせました。
 それでもだんだん落ち着いて聴けなくなり、ある日の音楽会の帰り道「今日の音楽会楽しかった?」ときいても、「いや行ってない」などと言い、私を悲しませました。それからは演奏中に指でリズムをとったり、メロディを口ずさんだりするので音楽会にも行けなくなりました。

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 ○ 徘徊はじまる
 そのうちに徘徊が始まり、ご近所の方が手分けしてあちこち探して下さいましたが、またいつするかもしれない徘徊のたびに皆さんを巻き込んでは迷惑をかけるし、まだ自分で看取れると思っているのはひとりよがりかも知れない、もう入院を決意する時が来たのでは……と思いました。デイサービスの所長さんに相談しましたら、「まだそんなこと考えなくてよい。もっと頑張りなさい」と言われ、いろいろな情報を提供して下さいました。
 そのころ介護教室が開催され、夫を連れて出席していましたら、保健所の方が「よかったら近所の方に、病気のことや対応のしかたなど話してあげましょうか」と言って下さいましたので、早速ご近所で親しくしている方々に集まっていただきました。それまでも何かとよく助けて下さっていましたが、以前にもまして積極的に夫に声をかけて下さり、手取り足取りして、「私たちにできる事があったら、何でもするから遠慮なく言って……」と言って下さる言葉に、肩の力が抜ける思いがしました。
 徘徊に続いて、けいれんの発作を起こすようになりました。初めて救急車も呼びました。MRI、CT、脳波など特に異状なしと言われほっとしましたが、念のためと点滴をされました。娘に連絡のため側を離れると、私を探したのか、針を抜いて洋服も足元も血だらけで廊下に立っているのです。発作の間隔も6ヶ月、4ヶ月、2ヶ月と狭まり、発作を見ていると恐くて、そのつど救急車を呼びました。検査で異状がない事も分かり、点滴を受けて帰るのですが、その間私はトイレに行く事も食事をとる事もできません。それからは慣れた事もあって、自宅で発作のおさまるのを一人で見守っていました。発作はいつも早朝で、凄いうめき声に目を覚ますのですが、その形相は恐ろしく、当分脳裏から離れず、時ならぬ物音にいつもおびえていました。

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 ○ 悔いの残らぬ旅行をと
 夫は元気なころ、一度は北海道に行ってみたいといっておりました。まだ失禁がなかったので、これが最後の旅行になるかもしれないと思い、夫はどこまで分かるかわかりませんがむしろ私が悔いを残したくなかったのかもしれません。
 医者の許可を得て、ツアーの添乗員に事情を話し、姉に応援を頼んで思い切って連れていきました。前年息子の結婚式でホテルに泊まったとき、朝早くふと目が覚めると夫の姿がありません。各階を走り回って探したことがあったので、夜夫が寝てからお互いの手首をひもで結びましたが、私が気がつかぬうちに解かれてしまい、次は腰を結んだりといろいろ工夫しました。
 トイレ休憩のとき、男子トイレにも入りました。女性の方はこちらを使いなさいよと言って下さいますが、断然混んでいて時間に間に合いそうにないのです。浴室が個室に付いていないところがあり、暑い時でしたので、添乗員さんが男性の皆さんに協力を頼み、貸し切りにして、添乗員さんが入り口で見張る事にしていましたが、ちょっと席を外されたのでしょう、他のお客様が入ってこられ、もちろん私は洋服を着ていましたが好奇心一杯の目で見られ、中には「こんなもん連れてくるなんて非常識だ!」と捨てぜりふを吐かれたり、人の親切に涙したり、非常さに泣いたりの旅でした。
 どこに行くのにも一緒、本来なら一人で済むはずの事でも、いつもいつも二人連れ、交通費も食費も2倍、バスや電車に乗れない状態になるとタクシーを使わねばなりません。こんなとき公的助成が欲しいと痛切に思いました。
 もう一つ私を苦しめたのは、夫の肉親が声をかけてくれない事でした。疎遠になってはいけないと思い、良い表情の写真が撮れると近況報告をかね、一筆添えて送るのですが何の返事もなく、私は一人でこんなに苦労しているのに兄弟のことが気にならないのだろうかと恨めしく、看病と同じ重さで心も傷つきました。
 昨年夏、5年ぶりに長崎から兄夫婦が「見舞い」といって来てくれましたが、変わり果てた弟の顔を見て泣いていました。私はこんなになる前に来てくれたら夫もどんなにか喜んだのにと叫びたい思いでした。
 一時間ほどは何の感情も示しませんでしたが、兄が幼いころの呼び名で呼んだ時初めて視線が合い、それからはよく笑い、鼻歌も出、手拍子を打ち、きちんとした言葉は出ませんでしたが何か話そうとするのです。私や子ども達にも見せたことのないご機嫌な様子に少し悔しい思いもしましたが、どんなにか肉親に会いたかったのだと察し、可哀想でなりませんでした。
 兄は一日も忘れた事はないと言いますが、何らかの表現をしてくれなければ心は通じません。
 在宅介護者リフレッシュ旅行に参加して、始めてあった方でも同じ病人を介護する立場で、一を言って十を悟る事ができる交わりは、溜まっているストレスを解消します。共に泣き共に笑っても、その陰にある苦労を分かち合った笑いは心安まるものがありました。変な慰めの言葉より、共に涙を流して聞いて下さる事の方が、何の答えはなくても慰められるのです。
 在宅介護者リフレッシュ旅行で、保健所や福祉の方々と温泉につかりながら「これが裸のつき合いね」と何でも話し合い、時の経つのも忘れて私たちの話を聞きアドバイスして下さった時は、強い味方を得た思いでした。

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 ○ 公的環境の整備を早く
 この2〜3年でアルツハイマーや痴呆に関する行政の始園、マスコミの取り上げ方は大きく変わってきたように感じます。特にレーガン元大統領の発表でアルツハイマーに対する関心は増え、レーガンさんの意図したところは確実に社会に根を下ろしたように思います。
 私の場合、夫は60歳前でデイサービスにも行けるようになりましたが、行政によっては年齢が満たないという事で援助を受けられない方もあります。若くてアルツハイマーになる方はまだまだ少数ですが、少数だから切り捨てるのではなく、少数ゆえに救済していただきたいと願います。在宅介護は、保健、医療、福祉、地域が見守って手助けして下さってこそ成り立つものだと痛感しております。
 癒える希望がない病に苦しんでいらっしゃる方は沢山いらっしゃいます。でも一番大切な人格がまるで変わってしまい、心を通じ合わなくなり、30有余年築きあげた夫婦の絆もガラガラと音を立てて崩れ去り、今は私の名前も妻である事も忘れられてしまい、残り少ない機能もこれでもかこれでもかともぎ取られていくような残酷な病気です。病状がどんどん悪くなっていく頃、どんなにか夫の死を願いました。本来の夫でなくなっていくのを見守るのは真綿で首を絞められるように辛く、また孫が覚えるオジイチャンの思い出が本来の姿でない事は更に耐え難く、「どんなに寂しくても我慢しますから、夫のイメージが悪くならないうちに命を召して下さい」とも祈りました。夫の死を願う妻がどこにいるでしょうか。数年前までは「長生きしてね」と語り合っていたのに……。
 一昨年の秋ごろから拍車をかけるようにして状態が悪くなり、毎月ショートステイも利用しながら在宅介護を続けましたが、一人で看る介護は厳しさを増し、私が食事もとれなくなり、薬を飲んでも眠れなくなしました。
 相談した医師から「あなたは病気ではありません。今必要なのは御主人を入院させてでも長期休養するのみです。こんな状態のあなたが看るよりプロの介護を受けるほうが御主人にとっても良いのですよ」と言われ、自分の限界を認めざるを得ませんでした。
 ただし、病人にとって一番よいのは住み慣れた家、家族と共に暮らす事、とどこでも誰でも異口同音に言われる中で、入院の決断はできませんでした。家族の会の方々の励ましや、保健所や福祉の方々の応援でなんとか切り抜け、前に医師から施設の入園をすすめられ、手続きをして1年半、昨年の3月にやっと特別養護老人ホームに入院する事ができまして、早一年を過ごしました。
 入園したらほっとするかと思っておりましたが、むしろこれでよかったのか、もっと在宅で看れなかったかと入園させた事を後悔したり、最後まで看取ろうと決意していたのに途中で夫を見離した自分を責めたりで、心は晴れませんでした。家族の会の方々が色々助言して下さったお陰で、やっと平常心に戻る事ができましたが、未だに心の一部でいつも痛みを感じています。
 夫にとって一番ふさわしいのではと思い、土曜日に家に帰り、日曜日は教会に行き、月曜日に園に帰るパターンを、歩ける間は続けたいと思っていましたが、夜間断水が始まり(おむつの当て方や寝間着など色々工夫するのですが)どうしても早朝に一式ぬらしてしまうので連れて帰る事もできなくなり、私がせっせと園に通っています。

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 ○ 自分で小さな集いを持つ
 家族の会で心を許して話し合える方々と知り合ってからは、度々お話をしたいと思いますが、私が孫を預かっていて自由に動けないので、私の家に集まってもらう小さな集いを開きました。思いの丈を話すことで日々積もるストレスを発散させ、先輩からは病院の先生も教えて下さらない介護の要領を教えてもらい、体験済みですから即役に立ちます。兄弟や近所の人に介護のきつさを話したことで思わぬはねっかえりがあったりするけれど、ここでは何でも話せると皆さん次の集まりを待ち遠しく思うのです。在宅介護を続ける上でこの集いはとても力になってくれました。
 生活の現場は、皆さんも経験していらっしゃると思いますが想像をこえるような事の連続です。寒い、暑い、お腹が空いた、喉が渇いた、どこかが痛い等など、たとえ40度近い熱があってもこちらが気付くまでは何も言いません。百パーセント意思表示ができないのですから、いつもいつも自分の視野の中に入れ、台所に立って後ろ向きの時でも常に振り返って何をしているか心にとめ、たとえ眠っていてもガサッと寝返りの音にハッと目が覚める(夜中に歩き回るので)、全身が目、耳といった感覚で過ごす日々でした。
 
 ○ 今は心にゆとりを持てて
 今は会いに行っても全くの無表情ですが、アイスクリームが大好物でしたので「アイスクリームを食べに行こうか」と耳元でささやくとニコッと笑います。美味しそうに食べる夫を見て満足し、次から次から話しかけ、少しでも反応があると喜び、私が帰るとき淋しそうな顔もしない夫に、「これでよいのだ」と自分に言い聞かせて家路につくのです。
 夫の病気をどうしても受け入れることはできませんが、最近はこの事があってこそ学んだ事、得た事の大きさを痛感し、最後まで私を成長させてくれる夫に「ありがとう」と言える心のゆとりを持つ事ができるようになりました。24時間夫をお世話してくださる園の方々、私を支え励まして下さるたくさんの方々のお陰と感謝するこの頃です。

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